昭和44年11月12日  朝の御理解



  御理解第66節「人間は勝手なものである、いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」と。
  確かにその通りですね、信心をさせて頂いて分かることは、あ~このようなことが私は分かることだとこう思うですね。
  生まれる時には、または死ぬる時にも、日柄も何にも言わずに、出てきたり、またはあの世に行ったりしておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うてとこう、確かにその通り、ね、そこで分からして頂かなければならないことは、おかげでこの世に出てきておるのであり、おかげで、あの世に行かして頂くのであるという、言うなら神様のお計らいでこの世に出てきておるのであり、神様のお計らいでまたあの世に行くのであると、そう分かってくると、途中もその神様のおかげで、生活をさしてもらうと言うか、神様のおかげで、日々が過ごせるということ、いうことも分かってくるとこう思います、ね、ですから、私共が、ね、そこんところが、私はもう信心の、お~、根本的なところだとこう思うんです、ね、神様のおかげでこの世に出てきておるのである、神様のおかげであの世へ行くのである、そんならその途中も神様のおかげでなからなければ本当の立ち行きはない、本当の立ち行きというのは、人間の幸せはない。
  神様のおかげで始まり、神様のおかげで終わる、ね、ですから、途中だけ自分の、言わば気まま勝手な生き方と、いうことで、私は幸せになれるはずはないと一つまず分かって、信心に取り組まなければならないとこう思うね、このような素晴らしい、私はその、考え方というのは、ないと思うですね、それが信心しなければ分からない、そこの、神様のおかげでこの世に生を受けておるのだということが分かったら、神様のおかげでこれからも立ち行かせてもらわねばならんと、いうところに私は日柄も言うこともいらん、ね、う~ん、日に良いの悪いのというようなことも言わんですむという、生き方が生まれてくるとこう思うんです。
  ここまで、ここのところをすっきりと分からして頂いたら、ね、この世に生を受けて、この世に出てくる時、この世を、を去って行く時、神様のおかげで、自分で死のうと思うても、自分でせっ、こう産まれようと思うても、神様のおかげを頂かなければいけんことがわかっ、分かるから、ね、その中であるところの、後先だけではなくてその、私共の一生の中身というものがです、神様のおかげを頂かなければということになってくる、そこからなら神様の、心も分からしてもらおう思いも分からしてもらおう、神様の心に沿う生き方にならして頂こうというところに、日柄も言うことはいらん、日の良いの悪いのと言うようなことを言わんですむ、おかげ、ここんところを、え~、そういう日柄とか方位なんかに縛られた生活というだけではなくてです、いわゆる人間の幸せというものを、をが、縛られてしまったような生活をせんですむということでもあると思うですね、本当の意味は、自由闊達と言うか、ね、自由無下と言うか、そういうその、お~、心の使い方が出来るところになるほど、お~まあ自由自在なおかげといったような世界に住むことが出来るのである。
  昨夜、夜の御祈念に、の時に、福岡から夫婦で参ってきた方がありました、先月あたり、夫婦熱心に朝の御祈念に参ってきよった、勿論その、それこそ私利に費がつくような苦しいことがあってのことです、商売を大きくやって、順調でまあいっとったんですけど、この頃、どうもその順調さをまあ、欠げて、まあどうにも出来ないというところまで、え~ごいちまい、持っておる例えば持ち物を売ったり、(?)を売ったりしなければならん、今月という今月はその家を売らなければ、もう(?)より他にないというようなせっぱつどころにあった、(?)さして頂いて今もうたいていがついた、ところが(?)に、え~、買おうとしても買わんというわけじゃないけれども金が出来ない、「月末まで待ってくれまあいっちょ待ってくれまあ一週間待ってくれ」というような風にして、商いがとうとう出来ん、もう今月はどうにも、その家を売ってしまう家のお金をあてにしておるわけですから、でなかったらもうどうにも出来ないというところになったんです、いかにその、その家の取り引きが出来るようにあって出来ない、(?)、今日そのその事のお願いをさして頂いておったんですが、それから、あ~、月末、先月の水曜日からばったりとお参りするの(?)、そして夕べ参ってきた、とうとう月末になっても、お~家は売れなかって、まだ今でも、いらんとは言えんけれどももう少し待ってくれとこういうような状態だとこう言うのである、「今はもうお店の方はつぶれましたか」と私が聞いたら、「それが先生不思議なこってあなた、もうとにかく今まで長い間商売をさして頂いておって初めて、あれほど現金があったことなかった」っち今月、先月、それから思いがけないところから金が入ってきて、「まあどうやらこうやらもうがつがつじゃあるけれども、先月は通りぬけることが出けた」とこう言うんですよ、「そんならあんた早よお礼に出てこじゃこて」と、ね、だからそこんところに「はぁこれこそ神様のおかげじゃなぁ」と、感じなければおられないほどしのおかげを受けておるのだから、そのおかげに、力、力を得て、今までとは違った、もう(?)に費がついたような、苦しさで参ってきておったのが、「これはお母さん神様のおかげぞ、このお礼に早よお参りせにゃ」と言うて、今までお願い参りしよったのを、言わばそこからお礼参りを始めるような信心にならなければ本当のおかげにはならんですよ、と言うてまあ、まあ、そしてその先月、おかげで立ちいったことの礼を細かに昨日ことお届けされると、もう本当に神様のお働き、とにかく自分の願っておったことが成就しなければおかげでないように思う、ね、今日の御理解、本当に人間っちゃぁ勝手なものである、ということ。
  勝手な願いをして、勝手なおかげを頂くということが信心のように思っておる、苦しい時に神頼みをすることが信心のように思っておる、それがどういうことであるかと言うと、ね、「人間は勝手なもので」と、産まれてくる時にも、ね、何月何日が日は良いから何月何日に産まれようなんていうような思いでは、それこそ、お~、(?)、神乍らな、おかげの中に産まれ、この世に産まれてきており、ね、神乍らにまたあの世に、この世を去って行くというようなことが分かっていないために、わがまま勝手な生活をして、そして自分が立ち行かんようになって、初めて神様とこう言うておる、いわゆる悲しい時の神頼みということになってくる、ね、そこでその悲しい時の神頼みということもまあ良いとしてです、ね、そこに神様の、思いとか心を分かろうともせずにただ自分の一つの願いなら願いということだけに、終始、終点を、焦点をおいて参ってくる、その事がおかげにならんとおかげを、頂きれなかったように思う。
  私がそのことを、お取り次ぎさして頂いた時に、え~、みかんのね、青いみかんを頂いた、御心眼に、こうみかんがいっぱいこう木になっておるところ、まだ青、青いみかんです、ね、ですから結局、ならしっ、その信者、願う者としては、あの早よそれをちぎりたいわけです、ね、けれどもそういうものをちぎったって、大した役に立たん、ただみかんをちぎったというだけのこと、ただおかげを受けたというだけのこと、そん時に金銭のお繰り合わせを頂いたというだけのこと、ね、本当にそれが美味しいみかんとして、頂かれるために、ね、やはりそこに時間をおかなきゃならん、と言うてやはり、苦しいことだけは間違いないのであるから、神様を、今までかつてない長い間信心さしてもらいながらです、ああぁ御無礼、信心じゃないです、長い間わがまま勝手な商売をさして頂きながらです、ね、わがまま勝手で出来てきておった時代もあったけれども、もう自分の力ではどうにも出来ないということになって、神様ということになった、今まで言わば勝手にしてきたことということが、今までの生き方、やり方というものではこのように行き詰まるんだと分かったら、そこから改められた商売、御神意にかのうた生き方、をさせて頂かなければいけんという、今までの生き方ではいけなかったということを、まず悟らにゃいかん、これは商売だけのこっちゃありません、ね、今までの生きてきっ、生き方というものが間違っておった、今までの思い方というものが間違っておった、それがこういう難儀に直面しておるのであるから、今までの思い方考え方、生き方というものを、改めなければならんという、事に、気付かせて頂くおかげをまず受けなきゃならん、ね、それでもやはり、それこそ私利に費がつくように、険しいことですから、ね神様が、ね、今までかつてなかった働きをそこに起こして下さって、今までかつてこんなに現金売りはなかったと言われるくらいに現金売りがあったり、思いがけないところからお金のお繰り合わせを頂いたりして、まあその場のところはおかげを下さった、とうとう月末になったばってん、家は売れんじゃったお金は入ってこなじゃったから、そのことが、もうおかげを受けきらじゃったと思うて、そのまま信心を、をなんですか、ね、十何日間お参りもしてきてない、ね、これでは、こういう言わばわがまま勝手な、あ~生き方、またはそういうことが信心のように思う勝手信心、身勝手信心、ね、神様の思いも分かろうとしない、ところからです、お礼参りでもさしてもらわなければおられないほどしのおかげを受けておりながら、お礼参りしてこん、にしてもまだ家の方が(?)になっとるから、どうとか(?)、だから私が、「その家の方のことはもう一時あきらめなさい」これが、ここ辺のところが難しいですね、一番始め参ってきた時分にですね、その「(?)をあきらめなさい」って言ったらもうそれきり参ってこないでしょうね、それが出来なきゃ立ち行かんから参ってきよるっとですから、ね、けれどもなるほどその家は売れなくてもです、ね、こういうお繰り合わせが頂けれるということが、分かっ、分かったから私が初めて、ここに参り、夕べ参った時にそれを言う、ね、「もう家は売れんなら売れんで良い、なるほど神様が、押しやりいやりじゃあるけれども何とはなしに道を開いて下さるんだ、ということが分かったじゃないか、だからとにかく立ち行きを願って家の事はまあ置いておきなさい」家の事いっ、その事ばぁ~っかり、もう電話どんばっかりどんどん、そのかけてからですね、まだお金は出来んから、早よ(?)してもらわにゃ困るといったような風なことばぁ~っかりで、ですからまだおかげ頂ききらん、まだおかげ頂ききらんでおかげ頂いておるのに、おかげ頂ききらんというような、言わば苦しい毎日を過ごさなきゃならん、その事は成就しなくても、思いもかけない、こちらの方がおかげを頂いて立ち行っておるのであるから。
  昨日そのことを私は話さして頂きました、本当に考えてみれば考えてみるほどやはり、立ち行くおかげを頂いておる、もう先月ではもう、はもういよいよもしそのお金が入ってこんならもうお終いだと、それから銀行関係のことなんかも、今までかつてない、まあその、お~何て言うですか、まあ言うならにいずをしてくれたとか、そういう意味なことを話しておりました、ね、銀行間系の方も、もう今まで出来ないと言いよったのが、まあ出来るおかげを頂いたり、または、あ~今までかつてない、(?)の商いがあったり、思いがけないところから、金銭のお繰り合わせが頂けたりして、あれやらこれやらで、なら先月も立ち行くことが出けた、ね、これはおかげ頂いた、として私はそのことをお礼参りをさしてもらい、そして願う、願うちゃならんと言うのでないから、願うていく信心にならなきゃいけん、銀行に借り、借り行くような信心から、金をあつげきいくような信心にならにゃいかん、同じ教会に通わして頂くでも、ね、苦しいから、お願いにお参りをするという信心から、おかげを受けて有り難いと、その有り難いというそのことをお礼にお参りをするという信心は、もう形は同じでも内容が大変違うじゃないかと、ね、そこで私達が色々分からして頂くことはです、ね、段々信心をして分からして頂くことは、あれもおかげこれもおかげというようにです、おかげを受けておるということの、大きさということが、段々分かってくる、ね、本当に神恩報謝の生活さして頂く、くことが出来るようになってくる、ね、そこから、一つの縺れたものが解けてくるようにです、段々あれもおかげになって、これも本当におかげになってくるというのが信心、(?)、そっ、そういう、一つの、お~信心が分からして頂くためにです、ね、私共は、勝手信心から、身勝手信心から、ね、本当の信心にならして頂かなければならないということは、ね、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんということ、ね、いわゆる神様の心に沿うていく生き方にならなければ幸せにはなれないということを分からして頂くということがです、ね、産まれる時にも勝手に出てきて、ね、死ぬる時にも、は、神様のおかげで、でなからなければこの世を去って行くことも出けん、日柄も、いう事は出けん、ね、日の良いの悪いのと言うことも言う、言うことは出来ない、産まれてくる時でも死ぬる時でもそうなんだ、ね、いわゆる神様のおかげを頂かなければ出来ることではないと分からして頂くところからです、ならその途中も、やはり神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだ、自分でああしよう、自分でこうしよう、ああして下さいこうして下さいということが、いかにわがまま身勝手な事かということが分かる、ね、日柄も言わずに出てきておるという事実がある、「何日の日は日が良いから悪いから何日の日に死のう」といったようなことが出来ない事実をです、突き止めたならです、その途中とてもやはり同じことだと分からにゃいかん、それが信心の、いや私は本当の信心の出来れる根本だと思うのです、商売が繁盛しないから、体が悪いから、色んな難儀な問題があるから、そのことだけを願うという信心は、私は身勝手信心だと思うんですね、根本的なところが分からんために、そういう願いになってくるのです、ね、だから神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという、私は事実をですね、段々信心さして頂いておる内に分からして頂いたら、ね、でそれでも私共が痛い事があり痒い事がある、難儀な問題がある、だからその事は願うと言うよりもお取り次ぎを頂くということだとこう思う、「痒うございます痛うございます」と、そしてその苦しい事は、おっ、お取り次ぎを頂いて、言うならここの、ここ御結界にお預けする気持ちなんだ、そして只今私が申しますような、本当の信心のかんっ、頂きかたと言うか、そういうことをです、うんなら死ぬるとか産まれるとかというその事実からでも一つ分からなければならんということなんです、ね、これはもうどうにも出来ない事実なんでしょうが、神様のおかげを頂かなければこの世に出てこられないのだし、神様のおかげを頂かなければあの世にも行けないのだ、ね、それが分かっておりながら、途中ばかり日柄方位を言うておるような勝手な生き方というものの上に人間の幸せはあろうようはずはないと、ね、ここんところに私は、教祖の信心の、まあ、金光教的と言うか独壇場的なものを感じます、ね、そこに一つの大きな悟りというものをです、そのような風な、このような66節のような風に、え~教えておられますですね、皆さんでもそう思われるでしょうが、この世に生を受けてきた、何月何日が日が良いから出てきたというのじゃないでしょう、ね。
  生きるも死ぬるも神様のおかげを頂かなければならんのなら、そんならその途中だって神様のおかげを頂かなければならんと、大きな悟りを開けるところから、私は本当の信心、本当の幸せの、なり、人間がなれれるための信心とでも申しましょうか、ただ、ね、昨日の商売の方じゃないですけれども、この家が売れさえすれば、(?)なるほどその場では立ち行こう、正しそれは丁度青いみかんを早ちぎりするようなもの、ね、ですから、はじめからこのみかんを、を、まだ早うちぎるじゃからまだ一時頂けんけんなんて言うたらもうがっかりして、もう参っちゃこん、あすけ一月までは、はぁこのみかんをちぎりたいちぎりたいばっかりに一生懸命参ってきた、とにかく今月が立ち行かんと言うて参ってきた、ところがみかんはちぎらなかったけれどもです、自分の思う通りのおかげを頂けなかったけれども、不思議な働きを不思議なおかげというものを神様が下さって、うんなら立ち行くおかげを頂いた、やっ、やっとではあるけれども先月はなんとはなし、なんとかかんとか言いながらも、立ち行くことが出けた、銀行の上にも、日々の売り上げの上にも、思いがけない金が入ってくるといったようなことの上にもです、これをお繰り合わせと言う、ね、だからそういうお繰り合わせを頂くということだけが信心じゃない、ね、言うならその青いみかんをです、それが本当に成熟するまで、それがちぎって美味しく頂けるところまでです、ね、待たせて頂く間に、今日の66節のようなところを一つ分からなければならんということになります、ね、もうだからそこんところがです、はぁお繰り合わせが頂けれるということの事実を、先月に、なら月末なら月末に頂いておるから、初めて私が言うよは、「もうその家の事は一時ばっかりおいときなさい」とこう私が言う、ね、問題は立ち行きさえすりゃ良かろうが、お繰り合わせ頂きさえすりゃ良かろうが、と言うて、なら私が、そこでお取り次ぎさして頂くことは、本当の信心を分かりなさい、そのみかんが売れるまで、の、その、本当のおかげの頂けれる信心を頂いて行きなさいという風に説くわけです、始めからそれ言うとったらもう、一番始めだけじゃ参っちゃこんでしょう、月末と言う、言わば大きな関所を、を、通り超えさして頂いて、それは自分の思うように、なって通り超えたとじゃない、思いもかけない事が起きてきて通りぬけておるのである、はぁ神様の、お願いをしていきゃ、なんとはなしに立ち行くことだけは立ち行くんだから、ね、そこんところをお礼を申さして頂く信心さしてもろうて、そこから本当な信心、いわゆる神様が本当に下さろうとしておるおかげというものをです、頂こうと、いう信心の体勢が整えられて、ね、分からして頂くことは、今日66節の、ようなところをです、「なるほどこれはわがまま勝手な願いじゃいかんな、信心じゃいかんな」と、ね、その証拠と言うても良いくらいにです、なるほど人間は産まれる時でも死ぬる時でもです、神様のおかげを頂かなければ出来んのであるから、日々のこのその中身であるところの、生活そのものもです、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと、分からしてもろうて、なら神様のおかげを頂くためには、私共がどのような状態になったら良いかと、どのような日常生活の上に、私共が改まって行ったら良いかと、今まではそれを知らなかった、それに気がつかなかった、だからわがまま勝手な生活をしてきた、ね、そのわがまま勝手な生活ではただし、只今のように難儀な事になってきた、只今のように行き詰まってきた、そんなら今までの生き方というものを、変えなければならないということをです、まず悟らなきゃいけん、今までの生き方というものを変えさして頂くところから、お繰り合わせが頂け、または願い以上のおかげになってくる、ね、いわゆる早ちぎり、早ちぎりをするのではなくてです、ね、時期がきて、それこそ当然の事のようにしてです、言わば美味しいみかんを頂かしてもらうことが出来るということになる。
  私は今日その66節から、確かにここに教祖が表現しておられます、このことはもう、ただ、私、読んだだけでは、う~そう深く感じませんけれども、今日御理解頂いてですね、初めてそうだなぁとこう思うんです、「知者も徳者も、ね、産まれる時には日柄も何にも言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのとこう言う」、途中ばかり、これ日柄とか方位とかということじゃないです、途中ばかりです、ね、「ああではないのこうではないの」とわがまま勝手な事を言うて、自分という者を苦しい狭いところにおいてしまう、ね、日柄とか、日が良いの悪いのということは、自分という者を広いですね、自由自在なこの世の中を、自分で小さいところに入ってしまわなければならないような、窮屈な生活をしておるということである、そういうことじゃない、自由自在なそれこそ、もうおかげの中に浸らして頂けれる、生活が出来るということをです、私は教えておられる、ね、「死ぬる時には日柄も何にも言わずに駆けっていぬる」と、そういうように、言わばああでもないこうでもないという生き方、さして頂いて、なら死ぬる時には、やっぱり「ああでもないこうでもない」と言われんのである、「神様、私はああ何日さけなきゃいけません」とか、「何日後じゃなきゃいけません」とかとこ言われんじゃない、ね、本当に神様のおかげを頂かなければ、あの世にすら行けない私達であるということを分からして頂いたら、途中ばかり日柄方位を見たり、という、ね、自分の都合、自分の、お~、
あ~、いや人間的な考え方だけでです生きていこうとする行き方がいかにつまらないものか、味気のないものか、ね、ということを分からして頂いて、日々が、それこそ(ムニカンソウ?)な日々ではなくて、自由豊かなとでも申しましょう、はぁどんなに考えても有り難い、どんなに考えても何という素晴らしいタイミングであろうかという、そういう素晴らしいタイミングの中に、日常生活が出来れれる、私共、おかげの受けられる、ものを持っておりながら、わがまま勝手な信心と言うか、わがまま勝手な生き方の中から、ね、そのように難儀な事に直面しなければならない、根本的なところを一つ分からしてもらい、ね、そこから私は、ね、これは、その、生きる時産まれる時死ぬる時だけではなくて、その中間こそが大事、ね、この世にある時のことの方が大事、そのこの世にある、そのあり方というものを、教祖は身を持って説いてあるわけであります、ね。
                                                                        どうぞ。


入力者:誠輝